米国大統領選挙 誠なき人

誠なき人

米国大統領選挙の開票間もないころJ氏は開票速報と銘うち、盛んに動画配信を行っていた。
J氏はトランプ候補推しを明言していて、トランプ候補が順調に票を伸ばしている内ははしゃぎ、その場を盛り上げていた。
彼はこの世界では有名人であり、また経済評論家として本も執筆していて、そこそこに売れているようである。また、学生時代は言論部に所属していて、論客でもあるようだ。
彼はそれからも数時間おきに発信を続けていたが、やがてトランプ候補の情勢が悪くなり、バイデン候補がほぼ当確の情勢になった。
すると彼は「いや~いい夢見せてもらいました」とあっさりあきらめ、その後多々コメントを残し手、その動画は終わった。
私にはトランプ候補が負けたというのがにわかには信じがたかった。
マスコミ各社は世論調査ではバイデン候補が優勢などと報じていたが、選挙集会で集まる人数や、その盛り上がり、それに比して地下室に籠ってほとんど出てこず、出てきては失言を繰り返すバイデン候補の当選はあり得ない。これはトランプ候補が当選すると確信していた。
それに加え、バイデン候補は中国共産党とのつながりがある。
カーター、クリントンオバマという時代を経験したことがある私にとって、米民主党というだけでかなり危ういのに、その上このような候補では日本の未来は多難なものになる。
しかしながら、大統領選はいつも接戦になり、すぐに結果が確定する事は殆どない。
気を取り直して、考えてみる。
すると、おかしい。
前半あれ程までにリードしていたものがそう簡単に覆るなど見たことがない。
やはり、おかしい。
もしやこれは不正が行われたのではないか?
以前から不正投票の噂はあったし、今回はトランプ大統領が反対していた郵便投票が大量に行われたという。
ならばこれは法廷闘争になるに違いない。
法廷闘争になるのならば、トランプ大統領が諦めるわけはない。
私は以前、トランプ大統領の演説を聞いていて、それは素晴らしいものだった。
その中で「自分が正しいと思うことは絶対に絶対に絶対に諦めるな」という一節があった。
そういう彼が諦めるわけがない。
私は彼を信じる。そしてアメリカ国民の良識を信じる。

やがて翌日か翌々日、J氏はネットのレギュラー番組に出演した。
そこでJ氏は今までとは違う発言をした。
「トランプは負けた。バイデンが勝った。」
「これだけ票差があればひっくり返ることはない」
「トランプさんのためにならない」
「日本でギャアギャア騒いでもどうにもならない」
「これが分からない人たちはどうぞ勝手に騒いでいてくれという感じですね」
というような趣旨のことを真顔で言った。

まずこの時点でJ氏は負けたと認識しているが、現実は負けていない。
まだ決定ではない。トランプ大統領も敗北を認めていない。
“ためにならない”と言っていたが、負けを認めることがトランプ大統領のためになるのか?
日本で騒いでも仕方がないというが、香港の事は世界中が騒いでいるが、これは無駄なのか?

すると私の頭の中で長年の疑問が霧を払うように消え去った。
なるほど、こういう人をいうのか!
私は今まで、頭ではわかっていても、腹に落ちない、わだかまりのような言葉があった。
それが一気に氷解し、腹に落ちた。身体に染み入るように分かったのである。

それは“誠が無い”という言葉である。

私がこの言葉を初見したのは
“陛下は生きておられた!”ブラジル勝ち組の記録/藤崎康夫 新人物往来社 1974年刊
という本である。
これはブラジル移民の中で日本が戦争に勝ったとするグループと日本が戦争に負けたというグループに分かれ、紛争になった時の当事者たちに取材した記録である。
この本の中で移民一世たちが二世以降を指して
「あいつらには誠が無い」
と言っていたのが、私の心に引っかかった。
“誠が無い”
とはどういうことか?
それは“誠意”でもなければ“信頼”でもない。
わざわざ“誠”と言っている。
しかも言っている相手は、自らの子や孫であり、直系の子孫である。
それらの人々は血統的には日本人であるが、中身には“誠”が失われていると言っているのである。
私はそれから色々な顔を思い浮かべたりしたが、なるほど何となくはわかるが、はっきりと輪郭をもって
捉えることはできなかった。
頭ではわかっていても、腹に落ちることはなかったのである。
ところが今回、J氏の言動とその顔を見てはっきりと分かったのである!
なるほど!
“誠が無い”とはこういうことか!
J氏はその番組の中で、ちゃらけたりしていた顔をやめ、口をとがらせ気味にして真面目な顔をするなど
千変万化させていたが、そこにはまさしく“誠は無かった”。
彼はそこからお得意の話術を使い、論理展開などをしていたが、私にとってはネタのばれた手品を見ているようであり、実に白けたものであった。
そこでもう一人、誠が無いと言われた人物を思い出した。
それは最後の将軍徳川慶喜である。
司馬遼太郎氏のエッセーの中で紹介されていたと記憶しているのだが、徳川慶喜の部下が彼を評して
“誠が無い”と言っているのである。
徳川慶喜は若いころからその才を認められ、頭脳明晰で弁も立ち、薩長からは家康の再来とまで恐れられた人物である。
ところが彼のそばにいた人物は、その才能や頭脳は認めてはいた、だが「あの人には誠が無かった」と言っているのである。
幕末、鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍大坂城に立て籠り戦うものとされていた。
巨大な要塞である大坂城はそう簡単に落とせるものではない。
ましてや幕府軍も一度破れたりとはいえ多数が現存し、薩長にはない軍艦も持っている。
武家の棟梁である将軍が指揮をとれば意気も上がろうもの。
武門の意地を見せて見せるものと、誰しもが思っていたし、それが当然とされていた。
慶喜もそのようなことを口にしていたらしい。
ところが、慶喜は夜中にわずかな側近を連れて大坂城を抜け出し、船に乗って江戸に帰り、自分はさっさと謹慎してしまったのである。
将軍が敵と戦わずしてさっさと逃げてしまったのである。
残された将兵はさぞや呆然としたであろう。
まさに誠なき人の面目躍如である。

慶喜は馬鹿ではない。
薩長もその才を認めていたほど頭脳は明晰である。
が、しかし、頭脳が明晰であったために考えが回る。
色々な事態を想定してしまうのである。
そして最悪の事態も瞬時に思い浮かぶ。
そんな時、最も確率の高いものは何か?できるだけ損害の少ないものは何か?
今でいうダメージコントロールを考えてしまったのだろう。
いうなれば損得勘定に長けていた。
しかし、人は損得だけでついていくものではない。
そういう人は簡単に裏切る。
“士は自らを知る者のために死す”という。
正義や志のためには人は死をも厭わないことがあることを誠なき人は頭では知りつつも避けてきたのであろう。
それは小人(しょうじん)だからである。
誠なき人には近づかないことが賢明である。
そこには”得“はあるかもしれないが”徳“はないからである。